愛知川の歴史
滋賀県と三重県境にそびえる鈴鹿連峰に源を発する愛知川の沿岸地域は、豊かな沖積平野と山麓にかけて大地が広がり、湖東平野と呼ばれる県内でも随一の穀倉地帯を形成しています。
私達の祖先は古くからこの湖東平野の中山間部まで野山を切り拓き、溜池を築造し、用水路を開削し、愛知川に流れる水を争いながら愛知川沿岸の農業を守り育んで来られました。しかし、愛知川は大雨が来ると狂ったように河川が氾濫し、流れ出ますが、20日も日照りが続くと忽ち用水は枯渇し、用水不足に悩まされてきました。その都度農家は、水を求めて井堰を補強し、水路をさらえ、溜池を増築するほか多数の井戸を掘るなど筆舌に尽くせない労苦を続けてまいりました。
水不足の抜本対策としては、既に大正年間から上流に大規模なダムを建設する計画が度々提唱されていました。これが具体化に向かったのは、戦後間もない昭和23年でした。8000haを擁する1万戸の農家は一丸となって立ち上がり、国・県に対してダム建設の強力な要請を重ねてまいりました。昭和24年、この要望が認められて国の調査が始まり、昭和26年の調査事務所に引き続いて、翌27年には国営事業地区に採択され、愛知川農業水利事業所が開設の運びとなりました。
しかしながら、永源寺ダムの建設には永源寺町の主として3集落213世帯に及ぶ家屋水没が余儀無きため、全戸の移住をお願いする大難関が控えていました。当改良区はもとより、国・県の関係者は拳げて折衝を重ねること10余年、ようやく昭和37年の暮れに全世帯の了解が得られ、同時に永源寺ダムの本工事が始められました。その間、永源寺町当局の苦難と絶大なご協力を頂いたことを特筆しなければなりません。そうして、昭和43年春には主要幹線水路が一斉に着手され、急速に事業の進展を見ることが出来ました。
かくして、永源寺ダムは昭和46年春に完成し、若干の曲折を経て昭和47年10月から貯水が始められ、昭和28年から待望久しい放水が可能となり、一部の潅漑を実施いたしました。30年目を迎えようとする現在では、ほとんどの区域がダムの恩恵を受けております。のみならず主水源の確保に伴って、管内の圃場整備の進捗率は80%を越え、農業農村の近代化を図る農村集落環境整備事業を促進するとともに、地下水の安定によって地域の産業振興に寄与するなど本事業の実効は計り知れないものがあります。
われわれは愛知川沿岸土地改良区の五十余年の歩みとともに、さらにそれまで先人達が築いてきた古来の農業水利をふりかえるとき、その過程はまさに農民と「土と水」との闘いの歴史であります。